有科 珠々
( ありしな じゅじゅ )
1963年、神戸に生まれる。作曲、演劇、日本舞踊を経て1982年から舞踏に従事。19歳から21歳まで京都の舞踏団〈白虎社〉で共同生活をしながら舞踏を学び、独立後、現代美術との関わり、東南アジアでの研究等を通して種々の舞踊を研究する。1990年、ダンス・カンパニー〈射干/NUBA〉を東京にて創立。NUBAは様々なジャンルのダンススタイルを越境しながら独自のコレオグラフィ技術を開発し、日本、アメリカ、中近東、ヨーロッパで活動。舞踏第三世代の代表として数々の国際ダンスフェスティバルに招待され、「前衛と古典の見事な融合」と称される。
1998年より有科珠々はフランスに移住。フランス人のスタッフやダンサー達と共にNUBAを再結成。公演活動の他、後裔指導に従事する。2001年よりバスティーユやマレのダンス学校で舞踏クラスを担当し、2003年からはプロフェショナル・ダンサー、役者の為の指導資格も取得、パリ市から定期教練場を提供される。2004年刊の『パリダンス案内書』では、パリにおける舞踏および日本の舞踊の指導者の第一人者とみなされている。同年パレ・デ・コングレに於いて世界の政界の要人の集う国際会議の終幕式でコレオグラフィを担当。
2007年の前半期にアメリカはオハイオ州のデニソン大学で助教授としてダンス科の指導に当たり、続いてアメリカの他の大学でもセミナーを始める。28年にわたるこれらの活動経験から独自のメソードを構築し、2010年の1月に著作『Paris発・踊れる身体ー有科メソードによるダンスの実践と指導
』が日本で刊行。
2011年より年に数回、多くのダンサーや演奏家達と即興の可能性を探る舞踏即興実験室SOKKYOを定期的に主催する。同年9月グラン・パレで開かれた世界のダンスの祭典では、日本を代表して日本舞踊を指導する。2012年以降ナショナル審査員のメンバーとなり、フランス中から選出された若いダンサー達をCROUSコンクールにて審査する。
2013年、仏語訳『LE CORPS PRET A DANSER(踊れる身体)』がフランスで刊行。
ヨーロッパ、アフリカの仏語圏で発売される。 2015年、英訳版『Butoh Dance Training』が英国で刊行。これらは紙の書籍と電子版両方で全米、カナダ、オーストラリアで販売され、ダンス研究所や大学、公共図書館にも所蔵されている。
有科メソード
有科珠々のスタイルは良きバランスと調和を、彼女の特徴とされる東洋の踊りのフォルムを広くしかも深く研究した豊富な経験の中で提供する。
女史は1982年より、舞踏を修練し発展させて来た。身体を尊重し理想的な健康状態を保つその方法の成果はこの長年において実証されたと言える。
そのメソードは幾つもの異なった学説で構成される。舞踏を通過し彼女自身ので生きた身体的な経験からの理論で作られた。それは、創造的なダンスの方法論であるとともに、同時に舞踏の美学や哲学への手ほどきともなっている。身体を尊重し、その理想的で健康的な状態を保つその方法は、30年間の適用によってその成果が実証されている。
有科メソードは、舞台人だけでなく一般人にとっても有益な内容となっており、体験者はこの20年間で数千人になる。 現在、総ワーク量は実に千時間分にも及ぶものとなっている.
生徒達は身体的な練習の中に表現や解放の方法を見い出すだろう。それはダンスにとどまらず、文学、音楽、美術、すべてを総合した舞台芸術に繋がる道標となることだろう。ある程度の年数、定期的に訓練すると、より大きな恩恵に浴することが出来る。
これらのクラス、ワークショップは総ての人々に開かれ、近付きやすい。実際パリの舞踏クラスには様々な国から人々がやって来る。初心者から経験豊かなダンサー、役者まで。実際、そこにはParis周辺だけではなく、ヨーロッパ諸国、USA、オーストラリア、アジア諸国等、様々な国の人々がこのメソードを学ぶ為に集まって来ている。舞踏はいかなる年代でも可能である。美術やクリエイターにとっては各々の構築の軸を作るのに役立つであろう。有科珠々はこのユニバーサルな芸術を鍛練することを通して、あなた方自身を再発見することに導くのだ。
”貴方”をとりまく包装(package)。
国籍、時代、環境、身分、そして容貌。
それは貴方を包むべき本来のものなのか? 選択はどこにあるのか?
貴方が一生逃れられないその”身体”でさえも包装紙の一枚である。
何重にも包まれたその核にあるものこそ<舞踏>であり、
それは人間の普遍的な欲求から起こるものだ。
故に舞踏は国際的に成り得、すべての人々に修練可能なのである。
有科 珠々(2002年 第2回Paris舞踏Festival
leafletの文章より)
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